つまらない論

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ユーモア・笑いのセンスは、ないよりもあった方が良い。つまらない人間でありたい、という人はいないだろうし、目立つのが嫌いでも、面白くありたいと願うだろう。「面白さ」は、お笑い芸人だけでなく、一般社会を生き抜く上でも重要なスペックだ。ちなみに、女性が結婚相手に求める条件で「一緒にいて楽しい人」が上位に入るそうだ。楽しいの定義はとても広いので、それが面白さだけの話ではないであろうが、一緒にいてつまらない人と結婚したい人はいないだろう。
実際、笑いが取れる人は、様々なシーンでことを有利に進めることができる。たとえば商談前のアイスブレイクであったり、営業トークに笑いを散りばめて関心を集めたり。学校の先生で、学年に一人は授業で爆笑をとる人もいたような気もする。先生が面白いというだけで、その教科が好きになったりすることもある。ビジネスにおいても、重要度は高く、ある程度の面白さがあれば、ちょっと業務に抜けたところがあっても評価は高かったりする。ミスを笑いに変えることで、関係性はプラスに転じることもある。ビジネスに限らず、人間関係において「面白さ」は重要で、結婚相手だけでなく、友人や上司、ありとあらゆる相手に、どこに面白さがあるかを探ってしまうものだ。面白さを相手に求めてしまう自分の勝手さは棚に置いて、とにかく一緒にいる相手は面白い方が良いのは当然だ。つまり、人は面白さをあらゆるシーンで相手に求めているのだ。そんな面白さを考えるにおいて、私が重要視するのは、なぜ面白くないのか。つまらない理由だ。

面白さには上限がなく、種類も多種多様だ。人によって感性も違うし、好みもある。芸人でなくても、面白くありたいと願うのは全人類が持つ共通の向上心である。好みの相手をクスリと笑わせたり、落ち込んでいる友人を笑顔にするためにも、笑いのセンスを研ぐことが必要だが、ハードルは高い。なので、逆を行く。つまらなくなければ良い。前段に挙げた「一緒にいて楽しい人」、これは厳密にいうと「一緒にいてつまらなくない人」であり「一緒にいて苦痛を伴わない人」と読み解くことができる。極端な話、10分に1回、一万円札をくれたらきっと一緒にいて楽しい。楽しいの定義は広い。なので、つまらないを避けることさえできれば、誰でも結婚できるというわけだ。

話を戻して、つまらないとは何か。これを理解できれば、最低でも「一緒にいて苦痛ではない人」を脱することができる。ので、どういう条件で「つまらない」のかを考えていきたい。「つまらない」はいつ生まれるのか。以下、私が耳にしてつまらないと感じた会話。
A「昨日さ、ウヒヒ、あー、一昨日か、フフフ、いつも行ってる居酒屋でさ。ハハっ、キノさん、いやその店の店員なんだけどね。あー、なんかサービスで刺身くれてさ」
B「うん」
A「でさ、イヒヒ、ありがとうーつって受け取って、あー、カウンターね。食べてみたんだけど、ウッヒヒヒ、ぬるくてめっちゃまずくてさー」
B「うん」
A「こんなのサービスじゃねーよ! アッハ 残飯処理じゃねーか!つって」
B「うん」
一緒にいたはずのない私が苦痛を感じた。Bさんは大人だなと思いました。
このように、つまらない会話は実はいたるところにあり、本人はもちろんBさんも改善要求はしない。「つまらない」の凶悪さは、誰も改善できないところにあり、ごく稀に面白いと感じてしまう人もいることである。もちろん私が感じる「つまらない」がすべてでではないが、上記を面白いと感じる人は存在しない。

長くなったので、上記がなぜつまらないのか、またつまらない話の定義については、後日公開します。

続く

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